2017年3月26日の朝の筑後川昇開橋。
前回のエントリーまでで、佐賀駅からこの橋を渡って東大川駅跡まで辿り着きました。

佐賀線の廃線跡探索、今回が最終回です。


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東大川駅跡からは有明海沿岸道路の下敷きになっています。
東大川インターチェンジから約2〜3分行った付近から、再び廃線跡が姿を現しますが、有明海沿岸道路から見るのは難しいかなと思います。



下道を回って、その姿を現す地点に来ました。
(実際は瀬高駅から探索してますので逆ですけどね)
特に目印がないので東大川ICからだと探すのが難しいかも知れません。



ここからは部分的に築堤を残しつつ、砂利道や踏み分け道のような感じで廃線跡が残っています。





















次の筑後柳河駅手前の川を渡る橋梁は残念ながら撤去されていましたが、その先に築堤を見ることが出来ました。
その築堤の先に筑後柳河駅跡があります。





この築堤が県道770号線の高架橋をくぐると、筑後柳河駅跡の公園に到着します。
元々この高架橋は佐賀線を交わすためのものですが、鉄道がなくなった今は無意味なものになってしまっていますね。



公園の中央付近の道側に筑後柳河駅跡の説明板があります。
また隣接する県道733号線は未だ筑後柳河停車場線を名乗っています。



山門郡三橋町が整備した公園ですが、三橋町は平成の大合併で現在は柳川市になっています。
ちなみにこちらは「柳川」ではなく「柳河」になっていて、この駅の住所だった「山門郡三橋町大字柳河」から取られたものだと思われます。









駅跡の公園を抜けてすぐの場所は築堤が残っていますが、途中からは道路が建設されつつあります。







廃線跡は国道208号線、西鉄天神大牟田線の高架橋の下をくぐります。



西鉄天神大牟田線と交差する付近に矢加部駅があります。



佐賀線とこの駅で乗り換えが出来ていたならもっと利便性は高かったかも知れませんが、それだと筑後柳河駅と近すぎる感じもしますね。







有明海沿岸道路の工事が行われている県道772号線と接続する矢加部東交差点。
ここからは県道703号線柳川筑後線の一部となっています。
おそらくこの建設中の道路も同じ県道になるのでしょうね。





この県道を進んで行くと、ぽつんと駅跡を示す石碑が建っている箇所が2つあります。



ここが百町駅跡。
二ツ河小学校南交差点付近の民家のそばにあります。



そしてもうひとつ。
中山散田交差点から少し佐賀側の地点です。



こちらが三橋駅跡です。
この2つの駅跡には石碑以外何もなく、駅があったことさえ想像するのが難しい状態です。
この2駅も三橋町内の駅でした。



三軒屋交差点からは県道96号線になりますが、その交差点の少し先、矢部川の手前で道路は大きなカーブを描いています。
この写真はそのカーブ付近から三橋駅側を撮ったものですが、瀬高駅側を撮るとこうなっています。



ここからは廃線跡が県道を外れ、矢部川に向かう築堤が残っています。
ここで矢部川の堤防に登って見たかったのですが、時間がなかったのと入り口がわからなかったので断念しました。
ちなみに矢部川を渡った反対側でも堤防への入り方がわからず登っていません。
ただ、矢部川を渡っていた橋梁が河川改修で無くなっているのは間違いないようです。
また渡った先も佐賀線廃止後に耕地整理が行われたため、廃線跡はわからなくなっています。

が、瀬高駅近くの小さな道路に突然、線路跡が顔を出します。



そう、小さな踏切跡です。
これは2010年に訪問した際も残っていました。
この写真で線路の向こうに見えるのが耕地整理後の田園地帯です。



この踏切跡から瀬高駅側には線路跡がまだはっきりと残っています。



国道209号線の高架の下をくぐり、鹿児島本線と合流。









ここまでは瀬高駅に近づきつつ、佐賀方向を撮影した写真です。
進行方向を向くと、終点の瀬高駅が見えてきました。



ホームに隣接したこの通路の先には自転車置き場があります。



この構造からすると、このホームから佐賀線の列車が発着していたようですね。



瀬高駅の駅舎のそばに車止めっぽい構造物があります。



この上の歩道橋に上ってみました。





この歩行者用通路と自転車置場、隣接する有料駐車場までは駅構内の用地を転用したものであることが見て取れます。



鹿児島本線瀬高駅。
佐賀線廃止当時、矢部川を渡ってからは山門郡瀬高町になり、瀬高駅はその瀬高町の代表駅だったのですが、瀬高町は平成の大合併でみやま市となり、現在はそのみやま市の代表駅となっています。

瀬高駅でも駅の中には入っていないのですが、以前鹿児島本線の準快速列車から分岐点までの様子を撮影したことがあります。



これは2010年5月10日、鹿児島方面から肥薩おれんじ鉄道経由で福岡方面で戻る途中で撮影したものです。
なんとなく瀬高駅を出発する佐賀線のディーゼルカーが想像出来ます。

この瀬高駅からは1920年から1938年まで東肥鉄道、後の九州肥筑鉄道の路線が分岐し熊本県の南関駅までを結んでいました。
この九州肥筑鉄道線が改正鉄道敷設法別表第113号の中にある「佐賀縣(県)佐賀ヨリ福岡縣矢部川、熊本縣隈府ヲ經テ肥後大津ニ至ル鐡道及隈府ヨリ分岐シテ大分縣森付近ニ至ル鐡道」の矢部川(瀬高駅)〜隈府(菊池市)間の一部分に当たります。
また隈府〜森(豊後森駅)間の一部分に当たるのが豊後森駅の隣の恵良駅から肥後小国駅までを結んだ宮原線で、1984年末に全線廃止されています。
結局、この予定線は部分開業したものの21世紀を迎えられず、そのすべてが過去の物語になり全線開通は幻となってしまったのです。





「佐賀線は探せん」というダジャレが思いつくくらい、廃線跡は見出だせないのではないかと思っていましたが、結果的には駅跡だけでも東佐賀駅を除く途中駅すべてが発見できましたし、所々にまだ鉄道のあった軌跡を垣間見ることが出来ました。
そして全くの偶然ですが、3月28日で廃止から30年。
もう四半世紀以上の時間が経過しています。

しかしどの廃線跡を見ても思うのですが、多くの労力を費やし開通させたのに時代に翻弄され利用されなくなったら廃止という、いったい何のために敷設されたのかわからなくなってしまう、このやりきれない感情はなんなのでしょうか。
ただ、これらの痕跡は、この地にも鉄道を必要とした時代があったという物語を紡ぎ出す証人となっている気がしました。

もう二度と列車が走ることはありませんが、これからもこの佐賀線という、過去の輝かしい物語が語り継がれればいいなと思いました。

長々と最後まで読んでいただき、ありがとうございました。