鉄路は、地域経済と共に生きていると言っても過言ではないだろう。
炭坑と共に栄えた筑豊地区も、石炭産業の斜陽化によって閉山が相次ぐようになった1960年代。
1940年には国内出炭量約4%に当たる約206万トンもの石炭を産出した三井鉱山田川鉱業所、通称「三井田川炭鉱」もその流れには逆らえず、1964年に閉山。
その閉山に伴う離職者対策として、田川市西部にあった石灰石鉱山の「関の山」に1963年開設されたのがこの「三井鉱山セメント田川工場」だった。
「三井セメント」→「三井鉱山」→「三井鉱山セメント」と社名の変遷を経つつ、地元経済の一端を担ったこの工場から、当時の国鉄線につながるセメント輸送のための貨物専用線があった。
現在平成筑豊鉄道にある金田駅と工場のあった地名「見立」をとって、「金見鉄道」とも呼ばれていた専用線である。
その後工場は産業再生機構によって2004年03月閉鎖され、それに伴いこの専用線も廃線となった。
工場勤務者は全員解雇され、地域経済に大きな影響を与えているほか、この貨物輸送が大きな収入源であった平成筑豊鉄道も大きな打撃を受けているらしい。
この線路用地はこの工場用地を引き継いだ麻生ラファージュセメントのニュースリリースで、今年3月までに金田町と糸田町へ譲渡されているそうだ。
また工場用地も美術館やレストランなどに変わるらしい。
工場の操業を支えた、この貨物線の跡を追ってみました。
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炭坑と共に栄えた筑豊地区も、石炭産業の斜陽化によって閉山が相次ぐようになった1960年代。
1940年には国内出炭量約4%に当たる約206万トンもの石炭を産出した三井鉱山田川鉱業所、通称「三井田川炭鉱」もその流れには逆らえず、1964年に閉山。
その閉山に伴う離職者対策として、田川市西部にあった石灰石鉱山の「関の山」に1963年開設されたのがこの「三井鉱山セメント田川工場」だった。
「三井セメント」→「三井鉱山」→「三井鉱山セメント」と社名の変遷を経つつ、地元経済の一端を担ったこの工場から、当時の国鉄線につながるセメント輸送のための貨物専用線があった。
現在平成筑豊鉄道にある金田駅と工場のあった地名「見立」をとって、「金見鉄道」とも呼ばれていた専用線である。
その後工場は産業再生機構によって2004年03月閉鎖され、それに伴いこの専用線も廃線となった。
工場勤務者は全員解雇され、地域経済に大きな影響を与えているほか、この貨物輸送が大きな収入源であった平成筑豊鉄道も大きな打撃を受けているらしい。
この線路用地はこの工場用地を引き継いだ麻生ラファージュセメントのニュースリリースで、今年3月までに金田町と糸田町へ譲渡されているそうだ。
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